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生田目の国語教育随想 第7回 ~塾でも「シンギュラリティ」は起こらない~

(unit通信12月号バックナンバー)

先日、土曜日に実施している難関国語対策で携帯電話に関する次のような文章が登場した。

リアルなものとは時間的・空間的に無限の多様性をもつ世界である。時折相手はえもいわれぬ表情をする。この表情には形容する言葉がない。それでも、それが何を意味しているのかについて、私たちの感覚は捕捉することができるのである。受話器の向こう側から届けられる声にも、この変化の残滓を聞き分けることはできる。しかし、多くの場合それは声が大きいか小さいか、高いか低いか、ノイジーかクリアかといった二文法的な差異でしかない。それは、ほとんど音声データのカテゴリーであり、現実の縮減モデルなのである

平川克美「経済成長という病-退化に生きる、我ら」‎ 講談社 (2009/4/17)

この引用の後半の内容、携帯電話で受け取る音声は現実の縮減でしかないということに関して、オンライン授業においても同様のことがいえる。

私自身、実はオンライン授業の運営は経験がある。

自前でウェブカメラやコンデンサーマイクを購入し、映像配信のプラットフォームを比較検討し、見せ方の工夫をするなど、少しでもクオリティの高い授業の提供に努めた。

それでもオンラインから対面の授業に切り替わったとき、子供たちと会えたことが何よりも嬉しく、少しでも良い授業を提供しようと張り切った。

毎日のようにオンラインで「会っていた」はずなのに。

また子供たちの方も、対面授業のほうが発言も活発になり、生き生きとしていた。

発言の活発化は頭を主体的に働かせている証拠だ。

思えばコロナ禍で様々なサービスのオンライン化が加速した。

アーティストによるバーチャルライブなどもその例だろう。

しかし、コロナ禍が落ち着きを見せると、人々は再びバーチャルからリアルへと歩み出すに違いない。

事実、一時的に感染数が抑えられた時期はそうであった。

カメラという枠組みを通して精巧に画面に再現されたコピーではなく、オリジナルを求め出しているのである。

一流の芸術を鑑賞するには、やはり生に限る。

数年前に塾長の福永と池袋演芸場で柳家喬太郎の落語を聴きに行ったことがある。

変化する表情や吐く息まで聞こえる臨場感はそこでしか味わえず、私は普段から喬太郎師匠の「死神」や「まんじゅうこわい」をiTunesでダウンロードして聴いていたが、生で見るそれは圧巻だった。

演目は新作落語の「任侠流山動物園」。

座席が不足するほど超満員の寄席の最前列で、縮こまるようにして聴いていたのだが、そんな様子を見て喬太郎師匠がアドリブで、最前の我々を一いじりする一幕もあった。

なぜ音楽業界でオンラインライブが市民権を得るに至らなかったか。

それは「時間と空間を共有できない」からだ。

生徒

え、時間も空間も消すことができるのは良いんじゃないの?

と思うかもしれない。

たしかに“物理的”利便性という点ではそれに勝るものはない。

しかし、好きなアーティストやそこに集まった観客たちと時間・空間を共にし、感情を共有する

そこで得られるものはただの映像の比にはならない。

また演者側にとっても、目の前に観客がいない状態での演奏や漫談ではパフォーマンスが落ちる。

YouTubeでお笑いコンビの「かまいたち」や「ジャルジャル」が、M-1で披露したネタを無観客状態で演じ公開していたが、M-1で見たときのそれとはクオリティに雲泥の差があった。

本人たちもやりにくいと思っているであろうことは、想像に難くない。

したがって「いつでも・どこでも」はメリットであり、デメリットでもある

オンラインが本当の意味でリアルに劣らないのであれば、欲望に駆られた現代人によってリアルは淘汰されてしまうはずだ。

リアル>映像という位階は決して逆転することはなく、そもそも本来二次的なものである映像がVR(バーチャルリアリティ)の開発で少しでもリアルに近づこうと努力をしていること自体、根源的にリアルに勝るものはないことを表している。

AIにおけるものと同様に、オンラインとリアルのせめぎ合いにおいても「シンギュラリティ」は起こらない。

本来バーチャルな存在である初音ミクですら、生演奏のライブをしていますからね(笑)

そしてそれは塾でも同じだ。

肉声でやり取りをし、手の動きや表情を観察すること、そこから相手の思考を読み取ること、それに合わせて声の大きさ・スピード・トーン・内容の抽象度をアドリブで変えていくこと、そして何より講師・生徒たちが成長する時間と空間を共にし、その喜びを分かち合うこと、これは対面授業だからこそ可能なことだ。

信じがたいが、もし仮にオンライン授業でもクオリティが落ちないというような授業があるとすれば、それはきっとリアルでもはなから大したクオリティの授業ではないだろう。

発信者側も受信者側もそのことをわかっていながら、その利便性がゆえに目をつぶるしかないのだ。

もちろんオンラインがダメということではない。

便利さと引き換えに失われているものにも目を向ける必要があるということだ。

オンラインで授業を受ける場合、そのメリットだけでなくデメリットにも留意して受講することが肝要である。

高等教育以上の予備校や大学のような場所であれば社会性はある程度身についていることが前提であり、オンライン授業で代替できる部分が大きいだろう。

しかし、初等から中等教育における塾を「ただ勉強を教える場所」という風に我々はとらえていない

進学塾unitの掲げる塾像は決してオンラインでは再現できるものではない、そう自負している。

「この授業なら別にオンラインでもいいよね」などと思われないような、そしてわざわざ足を運んででも受けたいと思えるような、そんな授業を心がけたい。

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国語教育随想

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