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第18回 ~国語と道徳【なぜ道徳を学ぶのか】~

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(unit通信 2022年11月号バックナンバー)

ブログのバナーなどに使用している私のイラストを描いてくれた子、この子は読解力がある子だ。

生田目イラスト
また新作を書いてくれました。嬉しいですね。

文章を読解する力が、とかいう限定的な話でなく、たまに(?)私のいう冗談に乗っかったり、嘘をすぐに見抜いてツッコミを入れたりして積極的に授業参加できる。

つまり、空気・行間を読む能力が高いのだ。

こういう子が一人でもいると、とても授業がしやすいし、講師側のパフォーマンスや教えたいという欲も引き出される。


目次

学ぶ側の主体性

ここで内田樹氏の文章を引用しておく。

生徒たちは教壇の向こう側から語りかけてくる人のことばを聞いています。そのとき生徒たちが聞いているのは、実は全員が別のことばです。ことばは同じなのですが解釈が違うからです。もちろん注意力の差や理解力の差で、聞いている内容は変わります(眠っている生徒と起きている生徒では、聞いている内容が違います)。でも、そんなことだけではありません。~(中略)~ 生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません。「学ぶ側の主体性」という考え方は、ここから出発しなければなりません。

内田 樹. 先生はえらい (ちくまプリマー新書) (p.42). 株式会社 筑摩書房.




生徒が学びたいという意欲を持って主体的に授業に参加し適宜(てきぎ)相槌(あいづち)なども打ちながら聞いてくれることで、相乗効果で生徒にとっても先生にとってもよい授業、良い空間となっていく。

既製品(レディメイド)の良い先生や授業など存在しないのである。

ちなみに相槌というのは「聞き手が話者に関心を持ち、理解していることを示す」行為であるから、「うんうん」とか「へえ~」などのように声を上げなくとも、眉頭(まゆがしら)を持ち上げたり、首を傾げたりするのも立派な相槌であるので、ぜひ子供たちには実践されたい。

マスク社会が非言語コミュニケーションを阻害(そがい)していることは遺憾(いかん)()えないのだが……。


「道徳」と「国語」は切れない

さて、その子が小説の心情把握、特に選択肢の中から選ぶタイプの問題が苦手だと相談してきた。

空気・行間を読む能力が高いにもかかわらずだ。

私にはある直感があってこう聞いた。

生田目

学校で教わると思うんだけど、道徳って好き?

生徒

いやー、苦手ですね。()(れい)ごとばかりで好きません。

なるほどやはりと思った。

別にこのことだけが原因と言えるわけではないのだが、とても大切なことなのでこれを機に記しておきたいことがある。

それは「小説の解答は道徳的観点で決定される」ということだ。

本来の小説というのは様々な解釈(かいしゃく)があってしかるべきだし、そのような小説ほど深みがあると言えよう。

解釈に幅が生まれないような説明的で、冗長(じょうちょう)で、野暮(やぼ)な小説など誰も読みたくない。


昔あるポスターが話題になった。

泣いている小鬼が中央下部に描かれ、その上にたどたどしい字で「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」と書かれているものだ。
https://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013/no1_b.html

「桃太郎」という物語を正義の味方としての桃太郎ではなく、父を殺された小鬼にフォーカスして読む子がいても一向に構わない。

物語は主人公の視点がすべてではない。そこに描かれた内面から様々な物語を切り取ることができる。

「うさぎとかめ」も、うさぎとかめのどちらを主人公とするかによって、得られる教訓も変わってくる(これも前述した学ぶ側の主体性である)。


しかし、テストではそうはいかない。

「主人公はどのような心情を抱いたのか」という問いに正解を用意する必要がある。

その正解の方向性を示す羅針盤(らしんばん)として「道徳」が用いられる。

道徳的に(ぜん)とされる解答が、国語では正解とされやすいということだ。

国語と道徳という教科が切っても切れぬ関係にある理由はそこにある。

したがって、その不文律(アンリトゥンルール)を知っていると、小説の読解における補助線を引くことができる(あくまでも補助線であって、それを根拠に問題を解くことはしないのだが)。

これが国語講師の立場から言える、道徳を学ぶ目的の一つだ。


なぜ道徳を学ぶのか

そもそもなぜ我々は道徳を学ぶのだろう。

それは「自分自身を相対化するため」ではあるまいか。

「自分」という存在は、他者の目を通して初めて認識される。

インサート
鏡を通してしか自分の背中を見ることができないように、案外自分のことに関してはわからないものである。

自分が仮に道徳的に異端であったとしても、自身の不道徳を自覚できずに主張し続けるのであれば、それはただの痛いやつだ。

一方で、常識を身につけた人間があえて逆説的に非・常識的な主張をするのは、内容の是非はさておき建設的ではある。


もっというと、そもそも道徳的善に絶対的なものはない。

道徳的判断は常にその人が育った文化に依存している(これを道徳的相対主義という)。

さらに哲学者のムーアは著書の「倫理学原理」の中で、「善は定義できない。ただ直感的に理解できるだけだ」と述べた。

つまり、善とはあくまで個々の文化圏における直感の集積知として語られるものでしかなく、その善も常に別の善との対立によって妥当性が検討され、ときには止揚(アウフヘーベン)を重ねた結果はじめて正しさとしての息を長らえていくのだ。

そして我々はその集積知としての暫定的な善を学ぶことで、マトリクス図の中での自身の立ち位置がわかる

道徳を学ぶ意義は、道徳的善を知ること自体にあり、そこで初めて自身を鳥瞰する視点が身につくのである。


最後に

というわけで、今回は「学ぶ側の主体性」と「国語と道徳の関係」について述べた。

特に後半、「正解のあるテストにおいて、多様な解釈のできる小説での正解をどうやって決めているのか」という問いについて答えたが、世の中にはそもそも正解などない問題がたくさんある。

それを“どう解く”のかは、生徒諸君の問題解決にあたっての「主体性」がカギを握っているに違いない。

この記事を書いた人

生田目
なまため
(イラストは塾生作)

進学塾unitの副塾長。国語・英語・社会担当。2019年には開倫塾主催の全国模擬授業大会の国語部門で優勝。塾において軽視されがちな国語教育の必要性を少しでも感じてもらえるよう、色々書いております。

趣味:ダーツ(カウントアップ860)、釣り(海・川)、野球(西武ライオンズ)

進学塾unitの副塾長。国語・英語・社会担当。2019年には開倫塾主催の全国模擬授業大会の国語部門で優勝。塾において軽視されがちな国語教育の必要性を少しでも感じてもらえるよう、色々書いております。

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Twitterはこちら @unit_nama

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