(unit通信 2022年12月号バックナンバー)
先日、ワールドカップの試合を見たせいでその日は睡眠時間が1時間しか取れなかったという中3がいた。
塾講師としての立場から言えば、「こんな大事な時期に夜更かしするなんて言語道断!」と言いたいところだが、個人的には睡眠を削ってまでサッカーを観たいなんて大変結構なことではないかと感じた。
興味・関心が外に向いていない
というのも、最近の子たちを見ていると、「何かを犠牲にしてまでも熱中できるものがある」というものがないように思われる子が多い。
もっといえば興味が外側に向いていない子が多いように感じられる。
興味や関心が外に向かない人間は、結果的に自分に対しても無頓着になるし、他人からも興味をもたれない。
しかし、人間は他者からの無関心を嫌う。
YouTubeや各種SNSでわざと悪目立ちして周囲の目を引こうとするような愚者の存在が、他者から興味・関心を持たれたいという小動物のごとき人間の悲しき性を表していよう。
今周りの大人が構ってくれるのは君たちが「子供だから」である。
無条件で他者から興味を持ってもらえるのは、家族を除いては義務教育までだ。
最近は子供にも多くの権利が与えられ、子供にとって居心地の良い社会的モラトリアム期間は延長されているが、ぬるま湯に浸かる時間が長いほど社会に解き放たれた時のギャップにくじける人は多いだろう。
自分の興味は他者からの興味の契機となるため、少しでも興味・関心が自分の外側に向いている人間になってほしい。
そうして人から興味・関心を持たれる、人から好かれる人間になってほしいと切に願う。
三笘の一ミリ
さて、そんな今回のワールドカップで特にセンセーショナルであったのが、格上スペインの撃破につながった「三笘の一ミリ」である。
堂安選手が出したゴール前に出したパス(シュート?)がラインを割りそうになったところに、三笘選手がなんとかスライディングで追いついてセンタリングしたことで、田中碧選手が勝ち越しのゴールを決めた。
その際に三笘選手がセンタリングを上げる前にボールがラインを割っていたのではないかということでVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)判定を待つことになる。
結果は1ミリを残してラインを割っておらず正式に得点が認められた。
三笘選手と田中碧選手は小学校からの幼馴染であり、そんな二人がワールドカップの舞台でアシストとゴールを決めるというのは、臭すぎるほどにドラマティックであり非常にエモい。
事実は小説より奇なりというクリシェが思わず脳裏に去来する。
オフ・ザ・ボール
この「三笘の一ミリ」をめぐって各種メディアやSNSでは「最後まであきらめないことの大切さ」を伝える教訓としての抽象化がなされていた。
しかし、ここでは少し違った抽象化をしたい。
サッカーでは人がいるところにパスを出すということも当然行うのだが、一方で人がいないスペースにパスを出すということも非常に多い。
しかも相手を出し抜いて裏のスペースを狙うようなプレーでは、ボールが出てからそれを追うのでは間に合わないので、

あそこにパスが来るかもしれない
というのを感じて先に走り出すということになる。
一見パスミスに見えるプレーでも、パスの気配を感じられておらず走り出しが遅かった味方のせいであったということもままある。
サッカーはボールを持った時のプレーがフォーカスされがちだが、一流の選手は「オフ・ザ・ボール(ボールを持っていないとき) 」の動きこそが一流である。
そんなわけでパスの気配を感じ取って走り出すと必然的に無駄走りになることも多い。
前田大然選手は60分の出場で約60本のスプリントを行っていたそうだ。
1分間に1回のスプリント。
当然無駄になった走りもあったであろう。
しかしそのうちの1回が得点に結びつく動きになるかもしれない。
だからひたすらに走る。
「無駄」を楽しめ
子どもたちは得てして



こんなの将来の役に立たない
とか



こんな知識は大人になってから使わない
などといった理由で、勉強をあきらめる。
しかし、勉強なんてものは大半が自分の人生に直接は役に立たない。
はっきり言って直接役に立つことのほうが少ないだろう。
しかし、そのいつ役に立つかもわからぬような「無駄」が自分の人生の中でいつどう関わってくるかわからない。
アインシュタインの「相対性理論」だって別に何かの役に立てようとして研究されたものではないが、いまや現代生活には欠かせないほどあらゆる場面で役に立っている。


端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係ない道具を作るという現象は世界各地で見られブリコラージュと呼ばれている。
フランスの文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。
「ブリコラージュ」(最終更新 2022年6月28日 (火) 01:50 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』。
https://ja.wikipedia.org/wiki/OECD%E7%94%9F%E5%BE%92%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%BF%92%E5%88%B0%E9%81%94%E5%BA%A6%E8%AA%BF%E6%9F%BB
南米アマゾンのジャングルに住む民族などは、ブリコラージュのために実用性不明なものを日常的に収集しておくそうだ。
語彙や知識の習得も同様、いつか役に立つかもしれないし、一生役に立たないかもしれないものを収集するという無駄の多い営みなのだ。
三笘選手の走りも、田中碧選手の走りも判定次第では水泡に帰す可能性があった。
無駄走りになるかもしれないがそれでも選手たちは走る。
そういった行動の集積が一つの大きな偉業につながることもある。
だからこそ子供たちには、よく遊び、よく勉強してほしいものだ。
役に立つか立たないか、無駄か無駄ではないかという見方にとらわれず、もっと「無駄」を楽しもう。
この記事を書いた人


(イラストは塾生作)
進学塾unitの副塾長。国語・英語・社会担当。2019年には開倫塾主催の全国模擬授業大会の国語部門で優勝。塾において軽視されがちな国語教育の必要性を少しでも感じてもらえるよう、色々書いております。
趣味:ダーツ(カウントアップ860)、釣り(海・川)、野球(西武ライオンズ)
進学塾unitの副塾長。国語・英語・社会担当。2019年には開倫塾主催の全国模擬授業大会の国語部門で優勝。塾において軽視されがちな国語教育の必要性を少しでも感じてもらえるよう、色々書いております。
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Twitterはこちら @unit_nama
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